「微笑ましい愛を信じる君よ」  その@


 俺の名前は原口真人(はらぐち まこと)。今現在、二十二歳のフリーター。去年、懸命に就職活動をしたものの、淋しい結末に至り、今はアルバイトを二つ掛け持ちしている状態である。一人暮らしをしたいのだが、残念ながら先立つものが無い。つまり、金が無いわけだ。そんなわけで、今だに親元で暮らしている。両親は、
「今は就職氷河期だから、一年くらいなら許してあげる」
 と懐の暖かい事を言ってくれた。それに甘んじるわけではないのだが、何しろ金もコネも無いものだから仕方ない。
 俺は、今まで彼女というものを持った事が無い。確かにそんなに格好良いわけじゃないけれど、人当たりはいいし、誰とだって仲良くできる。頭だって悪い方じゃない。けど少し優柔不断な所があったりする。でも、俺がもてないのはきっとそれが原因ではないだろう。俺は一言で言うならば「いい人」で終わってしまう奴なのだ。いい人だけど、彼氏にするのは‥‥。という感じなのだ。変えたいとは思っているが、変えたら「悪い人」になってしまいそうで、ちょっと恐い。
 そんな俺にも、ついに彼女が出来た。でも、ちょっとこの彼女には不満がある。初めてできた彼女に文句なんか言う権利など、俺は毛頭無いのだが、はっきり言ってそういう次元の問題ではない。
 正直な所、俺は彼女、というよりはその子を恋人だとは思っていない。向こうが一方的に俺の事を彼氏だ彼氏だ、と騒ぎ立てているだけなのだ。
 初めにも言ったが、俺は二十二歳だ。
 そして、彼女の歳は九歳なのだ。


 俺がその子と会ったのは、アルバイト先のペットショップだった。ペットショップと言っても犬や猫ではなく熱帯魚やイグアナみたいな、哺乳類以外の生き物を扱っている店だ。
 店内は狭く、畳十枚分と言った感じで、所狭しと水槽や飼育カゴが並んでいる。入り口から一番遠くにカウンターがあり、俺はそこでいつも一人で本を読んだりしている。ペットショップなんて毎日繁盛するわけがない。魚はともかくとして、爬虫類なんかは一月に一匹売れるか売れないかだ。
 だから、この仕事は楽だ。一日、カウンターで本を読んでるだけでお金が貰える。決して高い時給ではないが、辛い仕事をするよりはマシだ。
 その日も俺は小説を読みながら、カウンターでボケーッとしていた。確か時間は午後の三時くらいだったと思う。三時くらいは一番眠くなる時で、俺はウトウトしていて、文字を読んでいるのかいないなのか、よく分からない状態だった。
 そんな時だった。自動ドアが開いて、一人の女の子が入ってきた。歳は九歳か十歳かそこらで、学校からの帰りだったのか、ランドセルを背負っていた。髪の毛は真っ黒で、肩を隠すくらい長さ、目がとても大きくて、可愛らしい子だった。でも、その時は、何故だか俯いて、何か嬉しくない事でもあったのだろうか、と思わせるような暗い顔をしていた。
「いらっしゃい」
 俺は首を降って眠気を飛ばし、その子に言った。女の子は俺を見る。そして、何か驚いたように、目を見開く。俺はその態度の意味が分からず、何も言えずにただその目を見つめ返した。やがて、女の子は店内に視線を移し、ゆっくりと歩き回りだした。
(‥‥今のガキはみんなこうなのか?)
 俺はそう思ったが、変に話しかけられるよりはいいと思い、再び本に視線を落とした。さっきのあの驚きようは少し普通ではなかったような気がしたが、その事を聞くのも何だか失礼な気がしたので言えなかった。
 室内は水槽のポンプから出るボコボコという泡の音だけが、馬鹿にこだましている。音楽なんて気のきいたものなんて無いから、余計大きく聞こえる。とても、そこに二人の人間がいるようには思えなかった。俺はその空気が妙に不快に感じ、本から目を離して、その女の子の姿を探した。
 その子はじっとカメレオンを見ていた。そのカメレオンは典型的なタイプで、体が緑でギョロっとした目のやつだ。小さなカゴの中で、そいつは目をキョロキョロとさせているが、その子の事を見ているとは思えなかった。その子はそんなカメレオンをじっと、まるで固まってしまったかのように、じっと見ていた。
「おにいさん、これ、いくら?」
 突然、その子が俺に声をかけた。子供らしい、高い声が室内に響き渡る。俺は本をカウンターに置き、椅子から立ち上がって、その子の隣に立った。その子は俺の胸くらいまでしか身長がなかった。
「こいつはね‥‥三万円だよ」
「三万円? そんなにするの?」
 その子は納得いかない、と言った感じの、少し怒ったような顔で聞き返す。
「ああっ、カメレオンはみんな高級なんだ」
「‥‥‥ふーん」
 その子はまだ少し怒った顔をしていたが、俺の説明に納得してくれたのか、相づちを打ってくれた。それでも、まだ名残惜しそうにカメレオンを見つめている。
 基本的に、ここに子供は来ない。子供は犬や猫みたいな、毛がフサフサしてる動物を好む。特に女の子は爬虫類なんかは大嫌いだったりする。ここに来るのは魚好きか、ゲテモノ好きだけだ。
 俺は正直、何でこの子は一人でこんな所に来ているんだろう、と思った。親と一緒に来るならともかく、一人で来るなんておかしい。単なる暇潰しなのかもしれないが、それにしても場所を間違えていると感じる。
「おにいさん、ここにいて楽しい?」
 その子は顔を上げて、俺の方を見上げた。大きくて丸い瞳が、身じろぎせずに俺を見つめている。その子供らしからぬその問いに俺は戸惑ってしまう。一瞬、子供相手の嘘を言おうと思ったが、何だかそれはひどくこの子に対して悪いような気がして、俺は正直に答える事にした。
「まあ‥‥楽しくなくはないよ。楽だし」
「こんなにいっぱい生き物がいるのに、そんなに楽しくないの?」
「‥‥こいつら、愛想無いから。俺がいくら頭を撫でたり、餌をあげても、喜んだりしないし」
 ちょっと言い過ぎたかな、と言い終わってから思った。何の夢も希望も無い解答だ。子供を相手にして話す事などほとんど無かったが、それでもこれはちょっとひどいな、と感じ、俺は急きょ言い訳を用意し始めた。しかし、準備が出来る前に、その女の子は再び質問をした。
「‥‥‥ひとりぼっちだって、思った事ある?」
「えっ?」
 何を聞くんだ、この子は。そう思った。何だか、失恋した二十代の女みたいな事を言う。姿も声も子供なのに、聞く事だけは一人前だ。でも、不思議と説得力がある。説得力と言うよりは、ごまかして嘘を言う気になれなくなるのだ。顔が真剣だからだろうか。分からない。
「いつも思うよ。淋しいと思った事はあんまり無いけど」
「何で?」
「‥‥ここだと、友達とか、そういう事考えなくて済むんだ。俺の友達、みんな就職しちゃって、外に出るとひとりぼっちだって感じるんだ。ここだと、何故だかそういう事は考えなくなる」
 小学生相手に俺は一体何を言っているんだろう、と思う。こんな事を言ったって、分かってくれるはずがない。さっきの答えといい、完全に大人向けの答えだ。いや、大人にだって全員分かるかどうか疑問だ。そう強く感じて後悔した。しかし、その子は何故だか分からないが、俺の言葉を聞いて少し笑った。
「外だと淋しいんだ。‥‥へえ」
 その時、初めて俺はその子の笑った顔を見た。白い歯を見せて、大きな瞳を細めて、笑った。子供らしい、可愛らしい笑顔だと思った。
「私、帰るね。‥‥明日も、いるの?」
「いるよ。金土日曜日はいないけど」
「ふーん」
 笑顔のまま、その子は店から出ていった。俺は段々と遠ざかっていく背中の赤いランドセルを、ただボーッと見つめていた。不思議な子だな、とそんな事を考えていた。


 それから、その子は毎日ペットショップに来るようになった。
 その子は七崎奈々子(ななさき ななこ)という、やたらと「な」の字の多い子で、ここから歩いて二十分くらいの学校に通っている小学五年生だった。動物は好きなの? と訊ねたら今まで一度も飼った事が無い、と答えた。何故ここに来るの? と聞いたら教えない、と笑って答えた。
 俺はバイトを掛け持ちしている。月火水木曜日はこのペットショップで働いているが、金土曜日はコンビニで働いていた。日曜日は何も無い。奈々子と初めて会ったのが月曜日の事で、翌週の月曜に店長に、金土日曜日に女の子が来なかったかどうか訊ねたら、子供は来ていないという答えが返ってきた。という事は、奈々子は俺がいる時だけペットショップに来ている、という事だ。
 会う度に、カウンターを挟んで、俺と奈々子は話をする。俺が椅子に座ると、立っている奈々子と同じくらいの背丈になる。何故だか、奈々子は俺と同じ背丈になるのが好きなようで、俺が椅子に座ると明らかに喜しそうな表情になる。本人が意識してそうなるのか、はたまた無意識のうちなのかは分からない。
「お腹、空いてる?」
 奈々子はランドセルの中から学校の給食に出たと思われるコッペパンを取り出して、言う。
「少しね」
「じゃあ、食べる? 開けてないよ」
「うん。貰う」
 本当は大して空腹などではなかったのだが、断るのも可哀相なのでそう言う。喜ぶ奈々子からコッペパンを貰い、袋を開けて齧り付く。
「うわぁ、懐かしい味だなぁ。俺が小学生の頃と変わってないぞ」
「そうなんだ」
 何の代り映えもしないパンだったが、言った通り、俺が小学生の頃に食べたのと同じ味だった。俺も奈々子と同じ歳の時があったんだな、と感慨深く思ってしまう。
「全部、食べていいの?」
「いいよ」
 奈々子はにっこりと笑って言う。俺はそれを聞いて、あっという間にパンを食べてしまう。お腹が空いてるとか、そういう問題ではなく、食べる度に懐かしさを感じたからだった。その様子を、奈々子はカウンターに肘を立てながら、ほんわかとした笑みで見ていた。
 奈々子は色々と学校の事を話してくれた。三匹の兎と十羽のにわとりを飼っている事、自分は図書係をやっている事、授業は算数が難しいという事‥‥。俺も大学時代の話をした。国語の勉強(文学部の勉強)をしていた事、吹奏楽部にいた事、友達の事。就職の事はさすがに言ったところで理解出来ないだろうと思い、言わなかった。
 最初に言ったが、俺は誰とでも仲良くできる。だからと言うわけではないのだが、奈々子とも気楽に話せたし、話す事は楽しかった。同年代や年上と話す事はいくらでもあったが年下、しかもこんな子供と話す機会なんて早々無かったので、正直とても新鮮で楽しかった。俺が奈々子の歳くらいの時は、女の子と話す事はとても勇気のいる事だったが、こうして歳をとってみると、随分と俺も青くなくなったなぁ、と思えて笑えた。


 そんなある日、奈々子と知り合ってから二週間程経った時の事だった。
「動物園?」
「うん。タダで入れる券が二枚あるの。まこっちゃんと行きたいなって思って」
 近くの駅から五つ程離れた所にある動物園の無料チケットをヒラヒラと揺らしながら、奈々子は頬を赤くして、少し恥ずかしげに言った。
 この頃、奈々子は俺の事を“まこっちゃん”と呼ぶようになっていた。勿論、俺の名前が“まこと”だからなのだろう。
「動物園ねぇ。最近行ってないなぁ」
「でしょ? 行かない?」
「‥‥」
 俺はこの時初めてヤバい、と感じた。今まで女性とデートした事はあった。それは吹奏楽部の子だったり、コンビニのバイトの子とだ。でも、それは同年代がほとんどだ。年下と行った事もあったが、それでもその相手は十九歳だった。
 九歳の女の子とデート? それはさすがにヤバい。そんな事は一言で言うなればロリコンだ。
 別に奈々子に特別な思いなど無い。当然ながら、一人の異性としては見ていない。ただ、話し相手として今まで会っていただけだ。しかし、一緒に、しかも二人だけでどこかに行くとなると、それは単なる話し相手ではなくなるような気がする。もしも、一緒に歩いているところを誰か知人に見られてしまったらまず間違いなく、
「お前‥‥もてないからって“そっち”に手を出すとは‥‥えんがちょ!」
 と言われてしまう。
「ねぇ、行こうよぉ」
 そんな俺の気持ちなどおかまいなしに、奈々子は俺の鼻先でチケットをヒラヒラさせる。俺は必死に冷静を装い、言う。
「お母さんとか、お父さんとか、学校の友達とかいるだろう?」
 その言葉を聞いて、奈々子は一瞬だけ暗い顔になり、次の瞬間にはプゥと頬を膨らませて怒った顔になる。
「まこっちゃんと行きたいの! お母さんとじゃ、嫌なの」
 風船みたいな頬をしながらも、奈々子はまっすぐな視線で、俺を見つめている。そんな目をされると断りたくても断れなくなってしまう。しかし、言葉の言い草は思いっきり子供のダダコネだ。そんな子供と一緒にどこか行ったら‥‥やっぱしロリコンの烙印を押されてしまう事は確実だ。
「いつなの? その日は」
 その言葉をOKととったのか、奈々子は夏のヒマワリみたいな、晴れやかな笑顔になる。
「今度の日曜日」
「‥‥ちょっと考えさせてくれよ。明日、答えるから」
 いくら何でも、すぐに答えは出せなかった。奈々子はしょんぼりと肩を落とす。肩はがっくりと落ちているのに、口はへの字に曲がり、そして目はまだ期待に満ちているという、不思議な顔だ。
「‥‥何か用事入れるつもりでしょ? 私と行きたくないから」
 出会った時から思っていた。この子は本当に痛い所を突いてくる、と。俺は引きつった笑顔で、懸命に場を繕う。
「そうじゃないよ。家に帰って、用事があるかどうか確かめるんだよ。でも、多分無いと思うから、心配しなくていいよ」
「ホントに?」
「本当」
「ホントにホント?」
「本当に本当」
 疑惑の両目を向ける奈々子。俺は背中に脂汗が垂れているのを感じながらも、その目を少々無理な笑顔で見返した。
「‥‥分かった。明日も来るから、その時に返事聞かせてね」
 無理矢理自分を納得させたようで、奈々子はクルッときびすを返して、店から出ていった。出ていく時、奈々子はこちらをチラリとだけ見た。その時の目は、絶対にOKと言ってね、と言わんばかりの、甘い瞳だった。
 本当に喜怒哀楽のはっきりしている子だ。逆に、その方がこっちには辛いなどとは、きっと当の本人は知らないだろう。
 俺は奈々子の姿が見えなくなると、ふうっと大きなため息を一つついた。
「‥‥」
 さて、どう答えるべきだろう。当然ながら、日曜日に用事なんて無い。作ろうと思えば作れなくもないが、それでは奈々子に対して申し訳無いような気がする。後ろめたさを感じてしまうのだ。しかし、だからと言ってもOKとも言いづらい。兄と妹だ、と言っても歳の差は十三もある。十三も歳の差のある兄妹なんてなかなかいない。
「‥‥十三か」
 そう言えば、俺のいとこの友人が十五も歳の差があったのに結婚した。歳は三十六と二十一だったが。でも、周りの連中はそいつの事をロリコンだなんて、一言も言わなかった。そりゃ、そうだ。二十一はさすがにロリコンとは言い難い。エッチな事だって、十分にOKな年齢だ。
 確か、その二十一歳の女の人は、この人は私の憧れだとか何とか言っていた。ずっと想い続けていて、ようやくその願いが通じたという事なのだろう。
 憧れ‥‥。俺も小さな頃は年上の人に憧れを持ったものだ。小学生の時なんかは、女子高生の女の子なんかがえらく魅力的に見えたものだ。奈々子もそんな想いを俺に抱いているのかもしれない。憧れという思いは、凄く解釈が難しい。恋だとも言えるし、でも、一時の興味だとも言える。果たして、奈々子の“憧れ”は何なのだろう。
「‥‥」
 色々と考えてみたが、結局大した結論には至らない。何だかいくら考えても無駄のような気がしてきた。
 ‥‥まあ、一回くらいいいか、と悩みの果てに思う。俺も世間体さえ気にしなければ、行ってもいいと思っている。奈々子は心の底から行きたがっている。動物園なんて、俺の友達が早々いるわけがない。きっと、問題無いだろう。
「‥‥ふむ」
 俺は自分一人しかいない店の中で、一人で相づちを打った。


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